「おい。聞いたか。公園で人の左腕が見つかったって」
山下はトイレの小便器に向かって用をたしていたところに、いきなり背後からそう声をかけられた。ビックリしたせいでもう少しで小便器からはみ出すところだった。
山下よりも二十歳ほど年上の声の主はそのまま山下と並んで用をし始めた。
「あ。ご苦労さまです、大崎さん。今、戻りですか」
山下は首だけ声の主のほうへ向けてそう言った。
八月もそろそろ中旬に差しかかり真夏と言うべき炎天下のこの日、中年の大崎は今まで外にいたのだろう。額だけでなく半袖から伸びる腕にもねっとり汗をかいていた。
「おう。こう暑くちゃかなわんな。こういう時は若いお前に外回り行ってもらうように言ってんだけどな。まったく、あの課長も気がきかん」
土佐犬のように頬の肉の垂れている大崎はそう言うと恨めしそうに山下をチラッと見て、額の汗を腕で拭いて続けた。
「でもこんだけ暑いんだ。もう少し発見が遅かったら腐ってたかもしれんな、見つかったっていう腕」
某地域某県下の某警察署内の男子トイレ内での会話である。
山下と大崎はその署内の生活安全課に所属する巡査部長である。
「殺人事件ってことですよね。バラバラ殺人か。刑事課のほうは忙しくなりそうですね。うちらにまでヘルプとかきたら嫌ですよ、こんなくそ暑い中」
そう言って、山下は迷惑そうに眉をひそめた。
殺人事件など凶悪犯罪を扱うのが刑事課であり、それはTVドラマでよく目にするように署内でも花形の課だ。それに対して山下達の所属する生活安全課は主に少年犯罪などの事件を扱う課なのだが、忙しい時には人員を補強しあって助け合うことはよくあることだった。ただこのくそ暑い中、聞き込み捜査なんかごめんこうむりたい、と山下は言っているのだ。それが隣の課のヘルプとなればなおさらだった。普段ならいいけど、このくそ暑い時期だもの。自分達の仕事なら我慢するけど、なんで他人の仕事なんかを手伝わなきゃならんのだ、と。
それは大崎さんも同じですよね、と山下は思っていた。
しかし土佐犬の大崎は山下とはまったく違うことを考えていたようだった。
「殺人事件ってことはないだろう。片腕が見つかったくらいで」
山下には大崎の言ってる意味がよく分からずズボンのチャックを上げながら目をパチクリさせた。
「ど、どういうことですか」
「だから。殺人事件と決めつけちゃうのは早すぎるんじゃないのって言ってんだ」
この人は何を言っちゃてるんだろう、と山下は首を捻った。
人体の片腕が発見されたのだぞ。何年かに一度ニュースでも見るじゃないか。「本日未明、女性の手首と思われるものが発見されました。警察ではバラバラ殺人の可能性も視野に入れて」ってヤツだよ。山の中を散歩中の老人が数日前から放置されたバックに気づいてはいたんだけど、だからどうするってこともなかったけれど、その日は何となく近づいて中を見てみたら、その中には人の手首が入っていてビックリして腰を抜かして、その拍子に入れ歯も落ちた、なんてあれだよ。
それが今回は手首じゃなくて片腕だぞ。これはもう、どう考えてもバラバラ殺人じゃないか。決めつけるのは早すぎると言われても山下にはその真意が分からない。分からないのでそのまま訊いてみた。
「早すぎるって何がですか」
すると大崎は右の眉をピクリと上げて、垂れた頬をニヤリとして言った。
「いいか。人が死ぬってどういうことだ」
「え。死ぬ、ですか。寿命っていうか、人生が終わるっていうか」
そこまで聞いて大崎は山下の言葉を遮った。
「違うよ。そういうこと言ってんじゃない。どうなったら死んだって判断されるかって訊いてんだ」
「どうなったら・・・ですか」
山下は手を洗いながら考えた。
哲学的な話なのかと一瞬思ったけど、どうやらそうじゃないみたいだ。そもそもこの土佐犬が哲学的な話って柄じゃないしなあ。そういう知的なことよりも勘とか臭いとか嗅覚で物事を解決していくタイプだもんなこの人って。で、その嗅覚がものすごく冴えてる時があったりするのだ。この間もそうだった。
山下達の管轄する地域にはいくつかの有名なお寺が点在しているので一年を通して観光客で賑わっている。そして寺院の観光ということもあってか特にお年寄りの集団が目につくのだが、昨年の秋、そういったお年寄りばかりを狙った連続ひったくり事件が起きていた。捜査線上にある少年が浮上したのだが、どこを探してもその少年は見つからず、そうこうしているうちに一か月が過ぎ、操作方法の見直しが検討され始めた。そんな折、ハンバーガー屋で聞き込み捜査をサボっていたら、渦中の少年が隣のテーブルでポテトをほおばっていた、なんてことがこの大崎にはあったりするのだ。他にも、お昼時に署内にいる時は店屋物を注文する大崎だが、なぜかその日だけは外の定食屋で済ませると、その日いつもの店屋物屋は食中毒を起こした、など。
とにかく何か感じるものがあるようなのだ。顔が土佐犬に似ているから鼻も効くのだろうか。てか、大崎さん、手、洗わないんだ。汚いな。
それはそうと、どうなったら死ぬかだ。どうなったらどうなったら。
山下は少し考えて、でも大崎が何を考えているのかもいまいちピンとこなかったので、ちょっと面倒になって、
「心臓が止まったらですか」
適当な答えを返した。
すると土佐犬の頬がニヤッと緩んだ。
「そうだろお」
合ってたみたいだ。理由は分からんが。
「そうなんだよ。人は心臓が止まると死ぬんだよ。で、だ。片腕が取れると心臓が止まるかと言ったら、そうじゃないだろう。片腕しかないのに元気にピンピンしてる人だってたくさんいるじゃないか。腕だけじゃないぞ、足だってそうだ。片足の人もいるし両足の無い人だっている。でもみんなピンピンしてるだろ。戦争体験者にはそんな人達がたくさんいる。そういやオレの子供のころ、近所に片方が擬足のおじさんが住んでたっけな。みんなでよくからかって、子供ながら悪いことしたなあ」
そう言うと土佐犬は遠い目をした。自分の子供のころを思い出しているのだろう。犬らしく走り回っているに違いない。
「とにかく片腕が見つかったってくらいで殺人事件にされちゃ困るってことだ」
むちゃくちゃ言うなあ、このおっさん。なんちゅう屁理屈だよ。じゃあ、世間で流れてるあのニュースは何なんだ。「山道で手首が見つかりました。警察はバラバラ殺人の可能性を視野に入れて」みましたがそれはうっかり八兵衛、早とちりでした。ということか。
そんなわけないだろう。山下は食い下がった。
「いや。でも人の体の一部が発見されたんですよ。普通に考えたら殺人じゃないですか」
「そうかなあ。じゃあ、お前、肘から先が落ちてたら殺人事件だと思うのか」
「当り前ですよ」
山下は鼻で息を鳴らした。
「じゃあ、手首は」
「殺人じゃないですか」
「ふーん。じゃあ、親指だったら」
大崎はいたずらっ子のような目をしている。
「う。指くらいなら殺人じゃないですよ」
山下は口を尖らした。
「その区別ってどうやってつけてるんだ。手首なら殺人で親指だったらそうじゃないって」
「いや。そう言われちゃうとあれですけど」
うまく反論できない山下は、最後のほうは聞き取れないほどの語気でもごもごと答えた。
「だろ。結局、それってお前が勝手に殺人だと思い込める判断基準ってだけなんだよ」
「はあ」
「さっきも言ったように腕や足が無くたって普通に生きてる人はいっぱいいるんだから。それを考えると左腕が落ちてたって今回の事件も、それだけで殺人事件にしちゃうってのは気が早すぎるんじゃないのかって思わないか」
むちゃくちゃだなあ、と山下は思った。事故で片腕失くした人とこれとは全然別の話だもん。ただそれがぶっ飛んだ理屈だってのは分かってるんだけど、山下はなんか納得しそうになっていた。話しているのが二十歳も離れた年上だというのも奇妙な説得力に拍車をかけていた。
たしかに片腕が見つかったってだけで殺人事件にしちゃうのは浅はかすぎたかもな。素人じゃないんだから。と思い始めていた。
「でもそうなると、今回の事件は何になるんですか」
「落し物だろ」
「おと・・・落とし物ですか」
山下は思わず声が裏返る。
「だって人の物が落ちてたんだから。それは立派な落し物だろう。落とし主は困ってると思うぞ」
自分の言葉に納得するように大崎は腕を組んでうんうん頷いている。
「ってことは遺失物ってことになりますよ。遺失物ってなったら三か月はうちの署で保管しなきゃじゃないですか」
「そうなるな」
うわあああ。左腕の落とし主なんて、見つかるかなあ、と山下は思うわけである。
数日後。
「大崎さん!」
机に向かって報告書を書いている大崎のところに山下が駆けよって声をかけた。
「大崎さんってやっぱりすごいっスね」
弾んだ口調の山下に対して、大崎は顔も上げずに他人事のように低い声で「んん」とだけ言って報告書を書いている。きったない字だが仕上げるのに集中しているみたいだってことは見て取れた。返事はしたが言葉は耳に届いてないのかもしれない。それでもお構いなしに山下は続けた。
「大崎さんの言った通りでしたよ。あの左腕。持ち主、現れましたよ!」
「うそおおお!」
大崎は勢いよく顔を上げると西川きよしのように目をひん剝いた。その頬は小さく揺れていた。
了